私が多言語を学ぶ理由

はじめに:なぜ私が多言語を学ぶのかを、いま伝えたい

「どうしてそんなにいくつもの言語を学ぶの?」

そう尋ねられることがよくあります。

私自身、ふと立ち止まり、その理由を改めて考えることがあります。

英語、韓国語、中国語、ロシア語──これまでに学んだことのある言語は多くあります。

これからは、国連の公用語(英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、アラビア語)のすべてを習得することも目標としています。

これらの言語は、国際連合(United Nations)の公式文書や会議で使用される、国際社会の基盤となる言語です。

なぜ、そこまでして学び続けるのか。

ただ便利だから? 仕事に有利だから?

もちろん、それも一因かもしれません。

しかし、私にとっての多言語学習は、それ以上の意味を持っています。

言葉を通じて、相手の心の奥に触れたい。

その想いが、私を動かし続けています。

ここでは、そんな私の経験と思索を通して、なぜ私が多言語を学ぶのか、その理由をお伝えしたいと思います。

大学時代に芽生えた語学への興味

私が多言語学習に興味を持ち始めたのは、大学2年生のときのことでした。

1年生のうちに教養科目の多くを履修し終え、2年次以降は専門科目に集中できるようになったことと、2年次の専門科目の講義数がかなり少なかったことから、全体の講義数が大幅に減り、時間的な余裕が生まれたのです。

その頃から、「何か新しいことにチャレンジしたい」という気持ちが自然と芽生えていきました。

ちょうどそのとき、大学にはTOEICなどの外部試験のスコアや合格証を提出することで、単位認定が受けられる制度があることを知りました。

私は「面白そうだな」という直感的な動機から、その制度を利用してみることにしました。

そして、日本語と似た要素が多いと感じた韓国語に興味を持ち、独学でハングル能力検定試験4級の合格を目指すことにしたのです。

わずか2か月の学習で4級に合格し、スコアを大学に提出して8単位を認定されるという成功体験を得ました。

この体験では、何よりも未知の言語を自分の力で習得していくプロセスそのものの面白さを感じました。

教科書やアプリを通じて、新しい文字、新しい音、新しい表現が少しずつ自分の中に定着していく──

その感覚が非常に心地よく、知識を自分の手で手に入れることの喜びを実感したのです。

飲食店で感じた、もどかしさと気づき

ある日、私はとある飲食店で、ベトナム語を母語とするスタッフに注文をしました。

料理名や調理法を日本語で伝えたものの、うまく通じませんでした。

日本語がまだ十分に習得されていない様子でした。

結局、スマートフォンの翻訳機能を使って、なんとか注文を伝えました。

しかし、やりとりには時間がかかり、私は複雑な気持ちになりました。

「申し訳ない」──相手の貴重な時間を奪ってしまった気がしました。

「伝わっていない」──すぐ目の前にいる相手に、直接語りかけられない不自由さ。

この出来事が、私の多言語学習への姿勢をより強くしたのです。

翻訳機の限界を感じた実例

中国語を学習していたあるとき、私はふと「彼が来たよ!」という日本語の口語的な言い回しが、翻訳機でどう表現されるか気になり、試してみました。

すると、表示されたのは次のような結果でした:

提示されたのは「他来了!(Tā lái le!)」という表現。

これは状態変化を表すごく一般的な言い方であり、日本語の「〜よ!」が持つ語感や口語的なやわらかさ、驚きや喜びのニュアンスは反映されていませんでした。

もちろん、聞き方を変えたり文脈を加えたりすれば、前述のような語気助詞「啦」などが使われる翻訳になる可能性はあります。

しかし今回は、特別な設定や文脈を加えずに入力したにもかかわらず、表層的な意味だけが訳出されたという結果でした。

そのため私は、どこか機械的で、人間らしさを感じないという印象を受けました。

このような経験を通して、AIはまだ言葉の奥にある人間の温度や空気感までは再現できていないことを、改めて実感したのです。

多言語学習とは、敬意を表す行為

私が多言語を学びたいと思う最大の理由は、

相手の言語で語りかけることが、その人に対する最大の敬意だと感じているからです。

ネルソン・マンデラ氏の有名な言葉があります:

“If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head.
But if you talk to him in his language, that goes to his heart.”

「相手が理解できる言語で話せば、それは頭に届く。
しかし、相手の母語で語れば、それは心に届く。」

この言葉に出会ったとき、私は深く頷きました。

言語は情報を伝える手段ではなく、心を通わせる橋なのだと。

「おっ!」と心に響く、その表情の変化

この感覚は、ある多言語話者による動画を見たときに、はっきりと感じたことがあります。

共通語(英語など)で会話していた相手に対し、その話者が突然相手の母国語で話しかけた瞬間──

ぱっと相手の表情が変わり、笑顔がこぼれたり、目が見開かれたりする様子が映し出されていました。

驚きと同時に、自分が大切にされているという実感が、そのわずかな一瞬に表れていたのです。

この表情の変化は、言葉が「心に届いた」ことの、最も明確な視覚的証拠だと思います。

まさに、ネルソン・マンデラが言った
「相手の母語で話せば、それは心に届く」
という言葉の、生きた再現なのです。

まとめ:言語は心と心をつなぐ技術である

もちろん、私は誰にでも語学を学んでほしいと思っているわけではありません。

しかし、もしあなたの中に少しでも「学んでみたい」という気持ちがあるなら、

それはもう、十分すぎるほどの出発点です。

言語を学ぶことは、相手の心の奥に触れようとする、
人間らしいやさしさのかたちなのです。

そして私自身も、今後さらに多言語を学び続け、

将来的には翻訳やインバウンド関連のお仕事をいただけるような実力を身につけたいと考えています。

この文章が、その一歩を踏み出すきっかけとなれば幸いです。

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